メリークリスマス

宮川です。無事「Wobble_Boy」完了しました。ご来場いただいたお客様ありがとうございました。また、早くも売り切れでチケットをお求めいただけなかったお客様申し訳ありません。
今回の公演は、期待されるものがあってそれに応える習慣の再考を土台として成り立ちました。見に来てくださるお客様にはどうでもいい話だとは思いますが、何かと人間がやる以上、意識の立脚点がそれぞれのパートで必要なのです。
たとえば、俳優は、ひとつの役をやるにしてもひとつひとつの台詞の意味や無意味や効果や意図を考えますよね。それを持たずにできるもしくはもたないからこそ出来る場合もあるでしょうが、それを持つのか持たないのかから始まり、持つなら、なるたけ作者の狙いと完成形の青図に近づけたいと思うはず。その作業もある。
つまり、


人が絡んでいる限りはそれが演技に限らず「いいからやれよ」ですまされないことが多々あります。演劇の現場でなくても同じですよね。今自分が携わっているプロジェクトは会社の何のためにやっているのか?会社の中の優先順位はどのあたりにあるのか? その中で自分が出来る事はどの程度期待されているのか? それにより自分のモチベーションを引き上げて少しでもいいものにしようと思って頑張る(頑張れる)。
それが個人経営となると、自分を評価するのは自分なので、自分のやる気と緊張感を維持するのが大変です。課題を自分に出さないとならない。しかしそれが出来れば青天井で成長するでしょうし出来なければすぐに成長は止まるでしょう。成長が止まるということが人生を無駄に過ごしていることと思う人と思わない人がいるのでそれはそれでいいとは思います。成長ばかり考えすぎて体壊しても仕方ないですからね。
まぁ、なので自分が満足する作品を作ろうという主目的以外の組織内での公演の位置づけなどはそれぞれ座長なり代表プロデューサーは考えることでしょうし、多少は考えたってことなんですね。
自分としては恋愛という普遍的なワイルドカードを使ってみる点を除いては実験的なことばかりで新鮮でした。照明操作や打ち込みの手順を勉強したり台詞にマイクを乗せなくてもBGMのボリュームを大きくするにはどのあたりの周波数帯をさげればいいのかとか、げっ役者によって違うじゃねぇか、とかチラシの裏面にある「tyrell n6 v3」とアナログシンセ「MicroBrute」だけで音楽を作ってみよう、であったり。作る上での緊張感は常に維持されていたので出番が少なめな僕でも胃薬を三種類飲み続けていた公演中でした(汗)。今はコーヒーを解禁しましたが。
普遍的なワイルドカード「恋愛」について。
そう書きましたが、これはものつくりにおいて僕は「卑怯」なアイテムと勝手に受け止めています。無意味な判断ですが。たとえば、評価されやすい(共感しやすい)ものとして時事ネタや有名人の有名なギャグとかがありますよね。そういうのは問答無用にキャッチィな印象になるけれど(さもしいかどうかのプライド問題は別にして)、そういうのと同じく
・人の生き死に
・恋愛
これは大変に便利な要素です。物語の中で「死んだ」といえば誰でも悲しくなります。生き様や表情を豊かに描いてから「死んだ」とすれば誰でも感情移入して悲しくなります。そういったものは「動機付け」を簡略化(というかほとんどしなくていい)できるために便利に使われます。僕もキャストが多い時は伏線を引けないので重宝してます。
同様に恋愛は「理屈」ではないので、どうとでもなる便利な代物です。好きになることに理屈はないし、誰がだれを好きになってもおかしくない。あんな性格の人があんな人を好きになるはずが「絶対にない」ということはない。そしてそれを「どれぐらい好きに」なっても不思議じゃない。そういう意味での「ワイルドカード」ということです。
そのカードを用いることが嫌いでもないし、非難もしないですよ。ただ、どちらかというと、なぜそうなるのかそうしたのかの登場キャラクターの性格描写と動機に至る下ごしらえもした方が「仕事した気に」はなれる(←くだらない)。
自分が作ってきた芝居を振り返ると、もっともっと変な人をだしたいなぁと比較して思うのであります。変な人っていうのはいろいろありますけれど、たとえば「ほ通り六番の柱がないので」のダム(奈良チャボ扮する)であったり、「夏屋服部商店のやり方」のノブであったりです。変な人ってたくさんいるものね。自分も変な人だろうし。でも変な人が変な人として差別されない世の中に(僕はネットのおかげだと思うけど)なったので、もっともっと変な人を変な人として特別視するのではなく普通の存在として取り扱う芝居を時折は考えていきたいとは思います。
有名人女性二人が同性婚したし、エルトン・ジョンもようやく結ばれたし!
パソコンを持っていただけで「パソコンおたく」とか言われていた時代が嘘のようにマイノリティはマジョリティとなるこれからを思うと、「なのにテレビ脚本家になりたい人の修行の場」みたいな変な場所に演劇がならなければいいなぁと思いつつ、まぁでも人はどうでもいいやとも思いつつ、どどんがの免停解除おめでとうってことです。
なーんて、お客様へのお礼の書き出しで始まり、自分の中の頭の整理および日記になってしまってすいません。
周りの役者たちも移ろっていきます。事務所をやめる人もいるし、フリーで始めた人もいる。お母さんになった人もいるし、結婚してやめた人もいる。変わらず表現者であり続けるのは体力のいることですし、環境が許さなければ不可能です。そんななか、形を変えつつも芝居が作れているのはただただそれだけで幸せなことなのだなぁと思っています。そして、見に来てくださる方がいらっしゃるからこそ成立しているもろい立場です。無理のない範囲でこれからもよろしくお願いします。
みなさま、素敵なクリスマスを。

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