絶賛稽古中!(妻恋チェリー)

台本が遅くなりましたが、書き終えまして。本日これからの稽古で役者に配ります。少人数だと意外と台詞量が多くなる代わりに、複数人での呼吸を合わせる必要がなく、例えば二人きりのシーンであればその二人のリズムでやればいい。
三人以上いるシーンとなると、その中で、会話のテンポが「どう決まるのか」の問題が生じる。例えば、

  • 口論のシーンで応酬をリズミカルにして加速させた方がいいと思ってそれを実践してる役者
  • 冷戦のように感情の発露を控えてあたり柔和なやりとりに終始した方が「逆に怖いよね」と考えてそれを実践しようとしている役者
  • 演出が何も言わないので、とりあえず、台詞だけを並べている役者
  • 台本を読み切れていない為に、どうやっていいのかわからず共演者の狙いを探る事で手一杯な人
  • その中で、ビジョンがある人で、それを実践出来ている役者は「そのビジョンがあっているのかどうか」を見ればわかるので、違えば違いますよ、と伝えられる。例えば、前回の羽飼まりサンは解釈がハッキリわかる用意の仕方をしていたので、ものすごく明確だった。ほとんど稽古以外の会話もしないまま芝居は終わっちゃったけど、彼女が役のどの部分をどう考えていて、どうやろうと企んでいて、それを実践に移そうとしているけどまだ出来てないのね、うふふ、なんてことまで全部筒抜けでわかったのでとてもやりやすく助かった。
    理解していても、それを実践出来ていない役者が厄介で、「どう解釈しているのだろう?」と尊重して様子を窺おうものなら、のちのち「ああ、時間を無駄にしてしまったぁ」「指示待ち役者だったかぁ」となるので注意が必要だ。頭ごなしに役者を家畜のように扱う演出家が多いのも理解できる。尊重する必要がない、というのも一つの考え方だ。だけど、自分がラジオパーソナリティをやっていても思うのは、
    表現者(この場合は役者)が、ビジョンを持っていて、それに誇りとやる気を持っていてもらって、尚且つ演出する側の意図としっかりマッチしていればそれに越したことはない。表現者がただの道具と化してしまった場合、それはそれで演出が意図したことが出来れば「そこそこ」面白いんだろうけど、完璧にはなりえず。だから、僕は、自分が尊重してもらえず「いいからこれやれよ」とスタッフに接せられた時のラジオでの屈辱を糧に、どんな若い役者でもそれなりに尊重しようとしている。確かにがっかりすることもあるけどね。
    で。会話のテンポの話。三人以上だとそうなるけど、二人きりのシーンだと、その二人が「神」となれるので、全てを作る事が許されている。台詞量は多くても意外と作るペースが早くなるのはそのためで、もちろん役者の技量や裁量も信頼できるものじゃないと困るんにゃけどね。
    今回の稽古で役者に初めて台詞を渡して読んでもらった時に、一発で伝わってそのままやってくれる人が多くて嬉しかった。ケベさんは若い頃から見て知っていたけど、芝居でご一緒するのは初めて。放送作家の下等ひろきさんの劇団にいた喜劇役者で、おそらく僕らがお互い二十代の頃に、細かいバラエティ番組の片隅とか、再現ドラマの楽屋とかでご一緒してたりする筈。それぞれ人力舎界隈でフリーでやってたのだと思う。てか、まだそんな話もケベさんとは出来てない。童貞論と芝居の中身の段取りについての話しか出来ていない(いつもこんな感じ)。
    劇作は調教師みたいなもので、頑張ってもあとは「任せるしかない」という。そのあたりを潔くなれないとならない。もちろん、思った以上の結果に繋がる事も役者のおかげであるので一概に割の合わない立場とは思えない。
    少人数の芝居は当たり前だけど「無責任な役者」がいない。大人数だと全員がちゃんとしないとならないのに、全員がだらだらしやがる場合がある。それが楽だ。そんなのわかってるけど、二人のシーンて劇作する上で「簡単」なので、二人のシーンを数珠繋ぎにして作る芝居って、なんか楽してるというかズルしてるようで今まで避けてきた。いや、一応、ニール・サイモン全集とか読んだりしてましたよ、若い頃。先日古本屋で売っちゃったけど(二人芝居で言えば、尾辻克彦「シルバー・ロード」は売れずに持ち続けている)。
    最近、少人数の芝居を書くと、こんなにも稽古が楽しくて「思ったものに近づけるのが効率的」に運ぶのか、ということを感動している。芝居作りってやっぱり面白かったんだな。今回も、今日も稽古なので、それを感じられると信じたい。あ、時間だ。稽古やってきますっ!

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