シルク・ドゥ・ソレイユ破産。

コロナで全公演が停止となり、カナダの裁判所に破産申請の手続きをしたそうな。

シルク・ドゥ・ソレイユ破産

サーカスであり芸術であり。そういや、ジャニーズ事務所の芝居を書いて演出した時のマネジャーさんがシルク・ドゥ・ソレイユの舞台監督だったって聞いて尊敬しちゃった記憶。

それぐらい上質なクオリティで、「見世物小屋」の白眉。だよね。残念でしょうがない。

照明フェーダーの黒相と赤相。これの小計でブレーカーが落ちないように照明プランを作る。

学ぶ事は何か?

仕方ないで片付けていいのか、いけないのか。

演劇に携わる人間は何をどう考えればいいのだろう?

例えば、風呂敷を広げすぎてしまうとこういうことになる。と見るべきか。いや、違うな。

身の丈に合ってない経営をしていたのか? といえば、そんなことはないね。まさかの事態だしね。

うーん、やっぱり仕方ないと見るべきなのかね。何を学ぶ必要があるのだろう。ただの静観でいい筈がなく。

演劇とスポーツ

演劇とスポーツは「終了」と言われた新型コロナウイルス拡大防止に向けての今春。

しかし、スポーツは「無観客試合」が出来て、まだなんとか形になってる。僕も急に再開したリーガ・エスパニョーラを見てる。試合会場では何も流していないけど、中継の放送では、観客席の歓声を音響効果で足したり、客席が埋まってるような感じにCG加工したりそれなりに気分を盛り上げては居る。セクシーな役についた女優が胸パット入れるような事で、感謝こそすれ舌打ちするような話ではないね。

だが。演劇は「終了」のままだ。各地で再開された。お笑いライブ。少人数の公演。ネットでの物語披露。色々ね。表現したいという欲求に素直に、そしてその形(第四の壁に向き合う演劇なるスタイル)に拘泥しなければ、いくらでもやりようはあるだろう。

しかし、若い劇団の「表現」は終了しなくても「演劇」は終了した雰囲気がまだ漂い続けているね。残念ながら。

ORSの客席。

演劇らしさ

演劇ってものは、非常に簡易な表現で、そこが魅力。

人が目の前で演じる。声はその場の空気を伝わって耳に届く。音響効果もね。照明もその場の空気を照らしている。

演技をしたいのが俳優ならば、演技の仕方は色々あるでしょう。演劇に拘る必要も無い。YouTubeでいくらでもできる。集金したければ、課金にすればいいしね。

でも、演劇ではあれど、演劇ではなくなるので、そこは少し残念で。

演劇と映像の演技の違いを考えると色々な点があるよね。演劇は役者が観客の目というカメラの「カット割り」をする部分があるね。「俺の顔をアップで見てくれ」という演出は照明でも音響効果でも出来るけど、それを誘う演技が必要だ。逆に蔭を薄くして、「俺を見ないでね。視野に入れるだけでいいから、引きの絵として、パンフォーカスで舞台全体を見てね」という演技も俳優は出来るしすべき。

裏芝居で「うるさすぎて叱られちゃう俳優」ってのは、演技は全部100の力でやろうとするのが原因。全員に「自分を見てくれ!」とアピールする自己顕示欲オバケは、集団想像の演劇には向かない。

そのチームにおいての身の置き場。場においてのポジション(実際の立ち位置含め)を俯瞰で見る目も必要で。役者はあの狭い舞台の中でにいながら、空を飛ぶクローンカメラを持たねばならない。

とはいえ、全てを均一に映像に見慣れたお客様ばかりに阿る必要も当然ない。むしろそんなことはしない方がいい。

となると、後ろ向きになった時に台詞の声を大きくする必要もないし、聞こえなきゃ聞こえないでいい演技をすべきだし、作るべきが演出だ。それが演劇だからね。

演劇らしさは、小さい声と大きい声があって、小さい音と大きい音があって、明るい照明と暗い照明があって、人の魅力がむき出しになってる役者が目の前に佇む事にある。見せ方を上手いと思わせずに「あの人好き」と言わせる技術があればいい。そしてそれは、演劇という魔法が持つ力であり魅力ね。

そういうことを考えると、演劇がまだまだ復活しきれない現況は悲しい。

人生を賭けてしまうべからず?

演劇に人生を賭ける人も沢山いる。僕は好きだし生きている限りやり続けたいけど、賭けてはいない。というか、あまり演劇に色々なものを求めずにこれまで来た。

これで生活出来るように!なんて考えた事もないし、儲かればいい!なんて思った事もない。劇団員の人生を預かる立場で、それなりのことは考えたけど、本質はそういうことではないと思ってきたしね。

例えば、芸術や表現にまるで無頓着な役人さんを騙くらかして助成金を貰いやすくなりそうな演目を選んで、幕末モノとか社会的なモノとかを税金をタニマチにして公演を打つような真似はしたくないし、それを楽しめる人にはなれなかった。

そもそも、日本という国が如何に演劇を軽視しているのかを理解すると期待するのが阿呆らしいでしょ。大学の頃からそれには辟易していたので、もとより期待なんぞしないし、わかってもいない人達の顔色窺う必要もない。表現なんだから、自分が百%満足することだけ考えればいい。

そう思えば、客寄せパンダをキャスティングしたり、バズりそうな内容を演目に選んだり、なんてできっこないししたくもない。そんな中での僕は20代に結論が出ましてね。

自分の食い扶持は他で稼ごうと。演劇を仕事にしたら絶対に楽しめなくなる。だって、集客を考えたら劇団員なんか絶対に出演させない方がいいし、自分が作演出をしない方が良いよね、なんてことになっていく。それは違うでしょ? 演劇の面白さは、スポンサーの顔色を窺う事なく、自由にそれでいて集団想像が出来る点にある。役者はどうしても思い通りにはいかない。言う事を聞いてくれない。それをフリーズするマックが可愛いと思っていたあの頃のマックユーザーのように正対し続ける所にある。

何かしらやろう

だが、こうしてご託宣並べている場合でもない。表現者は表現せんとね。

何かしらやらないと。何が出来るのだろう。あれも出来るしこれも出来る。まだまだ出来ることは演劇内でもあるし、すべき時が来た。

めっちゃお気に入りの芝居が出来上がり、その通し稽古を目の前で見た時の演出家のなんとも言えない充足感は、一度みんなにも味わって欲しいと思う時がある。ああ、生きてて良かったって思えるんだよね。ホントにね。

投稿者: 宮川賢

宮川賢と申します。人は権力を持つとどうして威張り出すのかは未だ理解出来ないす。威張れる立場にあるから威張るのだとは思うけど、それを喜べるのはさもしいよ。

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