女子に俵氏を含むか否か。

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アニバーサリー女は、愛する男から見たら可愛い。

付き合い始めて一年目の記念日。

初めてお泊まりした記念日。色々。

この女子たちのおかげか責任か、記念日、という言葉はアゲアゲな印象だ。

記念日。嬉しい日。いい日。

サラダ記念日。俵万智の短歌にある、これも、ちょっといい日、という意味で用いてる。

その時期、発売されたであろうカラダ記念日というタイトルのアダルトビデオがどれだけ売れたかは知らないが。

関係ないが、この場合の「どれだけ売れたか」も、「どれだけ」と書けば「どれほど」と「どの程度なのかまるで想像つかない」印象だが、

今や「どんだけ」と書くと「沢山」とか「おびただしいボリューム」を思わせる。

これも時代による言葉の変化。

本当の意味はこうなのに。なんてのは、年寄りが時代においていかれてる自分を嘆く代わりにあがいて言う非生産的指摘であって、浸透したら、もうそれが言語だ。

これが、文語と口語の大きな違いだ。

話を戻して、記念日。
俵氏を女子とみるかはさておき、記念日は好い日、のイメージがある。

だからだと思うが、

終戦記念日、という言い方は、好きではない。

終戦を嬉しく思う事はよくないか?という議論ではなく、負けが決まったのだから、それを喜ぶなんて、などではいよいよもってそうではなく。

ただなんとなく。

ただ、平和開始日とかさ。どうせなら、そっち系でなんとかならなかったもんかなあ、とね。

喧嘩両成敗という言葉はあるが、戦争両成敗という言葉は聞いたことがない。

戦争は、今なお続いている。

日本が関係した戦争に対して、忘れて切り替えるべき事と、絶対に風化させてはいけない事がある。

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