ポストドラマ演劇

写真が誕生してから絵画が写実以外の道を開拓したように、ビデオやテレビが映画に続いて普及した今、演劇がすべきことは、現実の模写(事実の再現)に主眼をおく「ドラマ」という奴に依拠するだけでは足りない。というのは、最近言われるようになったけど、
元来、演劇の「劇的なるもの」の追求では、イギリスに負けず劣らず日本は進化し続けていた。脱ドラマでありつつエンターティンメントであることは模索する価値があるし、ドラマを作れるようになれば、脱ドラマを考える資格を得る。
例えば、僕が作る芝居の中でさえ、サウンドプレゼンテーションで僕が書いた演目の意味を考えたり、「入力1のパヴァーヌ」のラストシーンは何を指すのかを結論づけようとしたり、「PhⅡ顆粒」のラスト付近で良子とサエが見つめ合い語り合うやりとりの時制を問うのは、テレビドラマしか見たことがない人には仕方ないことではあるし、そういう方々も勿論視野の主立った部分におきつつ作り続けているけれど(誰もがそうすべきとは思わない)、つかこうへい「熱海殺人事件」で「大山は本当に殺したんですか?」と訊いちゃうような事だと思うんですね。
脱ドラマは所謂ベタを嫌うという事ではなく。なんちゃってドラマであり、ドラマのフリをして観客を騙して煙に巻いてくれる手法で、そこに心地よさを見いだしやすい仕方として、これからも作り手は研鑽を続けなければならない事ですよね。
全てを理屈で納得出来るようにしてしまったら、それは美男美女で知名度もある大スターや人気テレビ芸者が出てるテレビドラマの方を愉しんで貰えればいいワケで、芝居を打つ意義そのものがなくなってしまうと思うんですね。
静かな演劇ブーム以降、日常的なやりとりで構成されるスケッチ芝居が若い人たちの間で綿々と紡がれているけれど、それは随分と自分勝手な方向にスライドさせていく創作活動だなぁと強く思っているのは僕が年を取ったからかもしれません。平田オリザさんが言う「全ての劇的な事は舞台の外で起きている」作り方は、舞台上で「起こる」動劇ではなく、静劇と言われるものが出発点です。「桜の園」で落札されるシーンが描かれず、悔しそうに鍵を叩き付けるシーンで表すそれに代表されるように、描けばいいってもんじゃないよ、というのが静かな演劇と言われるものでした。それとは随分と違う方向で、でも「これをやってていい」とさも当然の権利のようになされる公演の数々に、
かつて「おんめーは、本当に解りやすい芝居ばっか作りやーって」とからかわれていた二十代を思いつつ、ちょっとだけため息が出ちゃうんです。つまり、演劇は運動ではなく、趣味になり、「公演を打つ」という趣味になったって事なのかもしれません。それは芝居が身近になった、と喜ぶ事なのか、どういう反応が正しいのかも解りません。ともあれ、こうしてそんなことを考えているだけで十分、オッサンだなぁって事は確かでしょうし。


さて。ここで、一曲。

sigur rosだよ。新譜は、みんな買ったよね?

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