公演が終わっても。

公演が終わって二週間以上経ちますが、取材で読んだ本をパタと読まなくなるので、何やら「抱いたら一丁上がり的に女を捨てるPLAYBOY」のような薄情さを感じています。


tatta.jpgそれは、芝居そのものが終わったらすぐに跡形なくなくなってしまうものであるからというのではなく、次の芝居の創作へ気持ちを頭を切り換えねばならないからです。
ですが、気分的には、なかなかうまく行かず、演出家と役者の違いはここにあるなぁ、とよく思います。
当たり前ですが、劇作家は時間をかけて台本の骨子を考えて取材をし、骨組みを考えて台本を台詞にしていきます。役者は台本を受け取って台詞を覚えて稽古をします。濃密な体力と集中力を要しますが、トータル時間は劇作家より短いかもしれませんね。
なので、役者さんはすぐに次の芝居に取りかかれますが、劇作家はそうはいきません。未練がある失恋男のようにストーカー男のように引き摺ってしまいます。
ですが、引き摺りながらも次の芝居へ移行していかねばならず。
なのに、まだサンカの本を読んだりしている自分ってどうなんだろう、と思ったりするワケです。まぁ、でも、公演が終わってパタとそれに対しての興味を絶つのは違うので、「とりあえず、段ボールハウス」の公演の後も、未だにBIG ISSUEを売っている人を見ると買いますし、「入力1のパヴァーヌ」以降も電磁波過敏症についてはことある毎に記事を追いかけています。とはいえ、公演稽古中に比べたら薄くなっているのも事実。それがなんとなく薄情だなぁ、と思うのです。思わなくていいのでしょうが。
で、振り返ると「ヒポクリティカル・アイランド」で読んだ本が沢山部屋にあって、とはいえ古本には出したくなくて。なので、ここで紹介してみますね。
「立ったまま埋めてくれ」これはオススメのジプシードキュメントです。切なくそして甘いリアルなジプシーの歴史。迫害された、という認識さえ持っていなかったのではないか、と感じてしまうぐらい「記録がない」ジプシー。濃密です。オススメです。
そして、サンカでオススメ、というと。
sanka.jpgこれですかね。色んな人が語ってます。中でも浮き彫りになっていくのは、柳田國男の話。この方は、「ヒポクリティカル・アイランド」本編でも台詞に書きましたが、被差別民やゲイなどマイノリティに対しての言及をある時パタとやめている。「山の人生」という中に封じ込めてそれきりになってしまった。それについての識者の見解が並び興味深い。
よもやサンカが自分たちの生活を受け継ぎたくないという思いによるものであり、それに倣って柳田がまるで移住してしまったサンカ民族やジプシーのように跡形もなく消してしまったような。そんな様子。
そうやって考えると、
サンカも、
ジプシーも、
芝居も、
ラジオも、
姿形がなく消えてしまうものである点は似ていますな。そういや、稽古場を持つ前は、公民館などの施設を借りていたので、「世田谷ジプシー」とかよく言ってました。
関係ないけど、本日は恵比寿に仕事で打ち合わせに行ったのですが、イルミネーションが綺麗でしたぜ。カップルが「わー、綺麗-」とか好いながら写真撮ってやがってましたぜ。ふんだ。あ、いや、怒るこたぁないですな。

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