漂うような70分

稽古で読み合わせをちゃんとやってみたのですが、チャボさんが野月(青森三沢基地で働く独身中年)のキャラクターを掴むのが早いと驚いた。やはり最初はずれている。解釈もずれているだろうしディテールも然り。しかしそれは通過点であり、当然のこと。なぜなら僕とチャボさんは別の人間だからね。これが一緒だと逆におかしい。
役者は、まず「自分なりの解釈をして稽古に演技を持ち寄りプレゼンテーション」しなければならない。なんとなくやっていていいのは、稽古初日だけだ。そこで演出家から指針が伝えられ、そこから具体的な役作りという名の勘違い行動が始まるべきで。そして、それを見て演出家は直す。まずは見せて貰えないと直せないので、いつまでも演出家の意向を探ろうとばかりして内容のない演技を稽古場に持ち寄る役者は無価値だ。↓↓


「駄目を貰わずに最初からオッケーを貰おう」とする役者ほど厄介な存在はなくて、駄目を沢山貰うから(=つまり否定されるから)オッケーに近づくワケで、そこを勘違いしているプライド高き人は少なくとも演劇には向かないと思う。極論を言えば役者はMという(汗)。いえ、演出家にビジョンはあるのよ、なくてはならないものなのよ。でも、それを伝えた所で、完璧に求むるものを出来る役者はいないからさ。ビジョンは理想でしかなくて、それにどれだけ近づけられるかが稽古の作業でしょう。
最初からゴールを指定して伝える馬鹿な真似はしないよ、演出家は。なぜなら稽古初日に伝えて「あとは公演初日に会いましょう」じゃないんだから。稽古期間が短かろうとずっと伴走するんだもの。まずはあそこへ行ってみよう。着いたら次はここへ行ってみよう。君がどこまで行けるか常にみているよ。この時期にここまで来られたならば、ゴール地点を変更できるかもしれないね。
どういうことかというと、演出にとって、劇作家にとって、自由に生命体を創作出来ない限りは作品は必ず「妥協の産物」でしかなく、その妥協をどれだけ少なく出来るかにバーニングするのね。そうでないと「あ、これで完成した!」となったら芝居やめちゃいそうだものね。
これまで公演では大人数を有機的に絡みつけて物語りを作ってきたけれど、今回は少人数で絡みつくものを少なくしてみてそれでいて目に見えない部分をグチャグチャに広げてみようという試みです。昨日の稽古で一気に見えたのでちょっと安心。さすが奈良チャボ改名しただけあるぜ。上演時間は70分を予定しています。ビタみせにて前売チケット絶賛発売中ですので、ぜひ、見に来てくださいな。僕も出てるしねー。
「Wobble_Boy」
12/18~22
平日19時、土日14時開演
3,000円(税込)
前売り=ビタみせ(v-mise.com)
会場=大塚レ・サマースタジオ(豊島区北大塚3-25-16B1)
出演=奈良俊介、宮川賢、福田加奈子、蔵光美穂、山梨谷梨、(声)中村愛
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