今年もお世話になりました。

新年の抱負をみんなは考えますが、抱負を述べたりする前に、年末にその一年を反省せねばなりません。

反省もしないで抱負を述べたりするのは、すぎたことをなかったことにして夢を語る享楽主義者です。 それがいけないとは言いませんけれど、一応僕は振り返ります。家族の一員として座長として劇作家として、演出家として劇団員の俳優として、ラジオパーソナリティとしてラジオ制作者として、制作会社社長として、それぞれ何点だったかを毎年振り返ることにしています。個人でやっていると自分で自分の勤務評定をつけてそれに則した対応をしていかないとなりません。

二年越しの欲しいものとしてのスーベレーンというペリカンの万年筆はまだお預けしております。買えなくもないのに我慢。引いた線を越えられなかったので。 さて、そんなこんなで今年ももうおしまいですね。先日、中村ゆうじさんと宮沢章夫さんと話していてビックリしたのは老眼ならぬ「老耳」になるよ、という話。テレビのボリュームがどんどん大きくなってしまうという話。ええっ?! そうなの? まだお二人は57歳。うげげ。そうなんだぁ。ビックリした。目だけじゃないのかぁ。本をあと何十年読めるのだろうと考えると、あと何冊読めるのだろうとどきどき思うけれど、CDさえも聞ける時間が限られているような雲行き。老化とはよわったもんですね。 rouka.jpg

そして、

いよいよ「つまらない大人」になっている部分と「お子ちゃま」でいなければいけない部分の決着をつけなければいけない年齢にさしかかって参りました。それは、まぁ決めなくても良い事なのですが、例えば番組制作をする立場の人は放送局の人でも営業や編成の言う事なんか知ったこっちゃねぇよ!とクオリティ優先で制作し続ける時代があり、営業の人間は現場の声など多少は理解するものの売り上げ重視で制作と折衝をする立場。そんな悠長な事を言ってられるのも今は昔。最近は、営業目線をもって制作出来る人が当たり前になってしまったし、その辺りのことを理解して臨める出演者が求められる時代(のような気がする)。

芝居でも同じ。儲けたいなら客寄せパンダばかりをお招きすればいいいし、本当に満足いくものを作るとなるとその辺りは犠牲になる。

あまり理解し過ぎるのもどうかと思うし、理解しなさすぎる(お子ちゃま)でいるのもどうかと思う。混在していた自分ですが、ケースによって切り分けて考えてきた。この仕事はお子ちゃまでいっちゃえ!とか、これはギャラ仕事!ってことで、とかね。でも、いよいよそんな棲み分けなんか考えている場合ではなくなってきたようなきがして。なくなってきたような気がするのは「自分がある程度の年齢になった」からなのですが。

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つまらない大人になっていくプロセスを楽しみ、ああ、もう戻れないなぁと自虐を甘んじて受ける事に愉悦を覚えた時期もありますが、というより仕方ないと思っている部分もありますが、そろそろジョブ単位でそれらのどこに位置して臨むかを変えるのではなく、場所を決めない?という気持ちに。

なんてのは思っただけで、こうして「思ったから書いた」というだけで満足しちゃうのが関の山なのですが。

来年こそはやろうと思っている事を満喫したいものです。何をやろうと思っているかは記しませんが、考えている事は沢山あります。もっと適当に生きてもいいような気もしてきたし、適当でありながらちゃんとしたことが出来ればそれに超したことは内のではないかとも思えてきたし。うーむ。ともあれ明日は「日曜!えぴきゅりあん」です。少人数で作っているので、とても充実しています。

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