何の為に?

小学生の時にどのみち死ぬのになぜ生きるのだ?と人生の無目的と無意味に絶望して泣き続けていた時に、母親に「人は人生を充実させるために生きるのよ」と諭されてあまり理解出来ずにいたけれど、その後鴻上さんも同じ悩みを小学生の時に持ったらしくて、あーやっぱりみんなそーなんだー、なんて思っていたけれど、その後話すとそんな人はおらず、あれ?って感じ。
でも。人生にはなくても行動には目的があっていい。↓


これは何の為に? 何を目的に? と考えて行動をするこれまでだった僕ですが、ようやく35ぐらいから「やりたいからやる」とか「欲しいから買う」とかのわがままを覚えて痛快な気分に浸れるようになりました。ただ欲しいから買う、なんてのはほとんどしてこなかったというか買うものは必ず、何かしら理由を付けて「必要」と自分を思い込ませてきた。
例えば会社は(NPOとかを除いて)営利を目的に存在する。ということは会社員は会社の利益を優先して動く。放送局も民放は同じ。お金沢山貰ってるしあまり東京電力の事を悪く言うようなことは(出演者が勝手に言う分は除いて)やめておこうよ、だろうし、ここまで非道いとやはり多少は糾弾しないとおかしいよね?でタガが緩んで攻撃論調になったりならなかったり。
だからもう終わっちゃったけど、TBSラジオの「アクセス」って番組に対しては論じてるだけで何も世の中を変えても居ないし喧嘩だけしている、なんて無意味な?!と思っていたが、信頼してる元担当者にその後に聞くと「それでいい」と「結論なんか出さなくて良いからただその話に対して議論するだけでいい」そんな感じだったそうな。そのときはあまり理解出来なかったが、「それがそのことに興味を持つきっかけになる」ならそれでいい、という事だと理解し合点がいった。
だから猛烈に唐突に震災のことをラジオで触れたりするのは、芸人さんのラジオ番組でいつも笑わしている人が時折り見せる人間らしさで聴取者のハートを一気にわしづかみにしてしまう効果と同じく、僕みたいな不真面目きわまる男が震災についてきいたふうなことを言えば「あー、こんな奴でも考えてるんだぁ」と多少は何かがあるかもしれない。そんなつもりではおります。なので、反駁上等で時折、ツイッターで震災について呟いたり放送で触れたりするけれど、2011年のように攻撃的に絡んで来る人が極端に減った。もう関東近郊ではほとんどいないといっていい。それが一番問題。寂しい。もうどうでもいいことになってしまっているのかなぁ、と逆に心配になる。2012年ぐらいまではまだガンガン直接僕にメールを寄越したりメンションとかで「お前は間違ってる!」とか「不真面目だっ!」とか「もっと勉強しろ!」とかあったんだけどね。
なんてことはさておき。朝日新聞が面白い。プロメテウスの罠は勿論、孫さんの震災についての連載は見逃せない。関係ないけど、扇田昭彦が演劇評論で唐突に改行後に「という訳で、」と書き出していて吹いた。なんだそりゃ。今や無能なラジオDJがとりあえず時間つなぎに喋る冒頭の慣用句みたいなものをあの人が使ってどうする。もともとは所ジョージさんが「そんな訳でございましてですねぇ~」ですよ。あービックリした。
でね。その朝日の手抜き除染のスクープが新聞協会賞を受賞した。この「見つけただけ」というのではない部分「すっぱ抜いただけ」というのではない部分、「一所懸命取材しました。寝ないで写真撮りました!」というのではない部分がとてもいい。「で、これを見つけてどうするのか?」そこまで踏み込んでいるので、とても気持ち良かった。これまでの新聞に対するイメージが大きく変わった。
テレビやラジオのニュースでもただ事実を丁寧に並べているだけに見えて、その奥にあるものを見ていないことが多い。それだけその事件を報道すれば、あの人は「悪者イメージ」になるよねぇ、とかあれだけ放送していたのに急にしなくなると「忘れて良いもの」のように見えるよねぇ、とか。この辺りNHKはきっちりしていて好感。
結局ニュースの見方、受け取り方にはこつがあって、民放が言っている、とか産経新聞だからああ載せてるよね、とか解っていないといけないことが面倒ながら日本には多い。飛ばしの日経もdocomoのiPhoneが狼少年じゃなくなってしまったので、これからどう日経を見ればいいのやらわかんないしね、なんて冗談はさておいても、結局自分で調べないと事実に近い事は解りませんし、能動的に知ろうとしていないことの全ては「何かによって洗脳」されているのだということを覚悟しないとなりません。
ここ数日、芝居の台本ばかり考えていたから明日からの三日間連続ラジオ生放送に向けて、あえてラジオについてもの申してみるけれど、僕はラジオを通じて人を元気にしたいと思っていて、それ以外の番組はやりたくないし、やるつもりもない。その手段として「笑う」ということを考えており。僕かスタッフが最低でも二分に一度は笑いをとろうとしている(結果とれていなくてもいい)か、もしくは僕が笑っているのか、どちらかを念頭に置いている。それは僕の個人的な事でラジオ界においてどーでもいいことだと思うんだけど、
でも、自分が携わっている番組でスタッフも出演者も「この番組を通じて、聞いた人にどうなって欲しいのか?」を考えている人が何人いるのかは、僕はわからない。具体的に「聞き終わったら、もしくは聞き続けていたら」聞いている人の生活がこう変わる、聞いている人の性格がこう変わる、そうなって欲しいと具体的に思っている人がいるのかよ。とたまに思う。ラジオって狡猾にすればスタッフが好きなだけ放送を使ってオナニーも出来るし、やりたい放題。なんとなく面白そうだからやってみようよ、なんてテキトーに企画をあてがわれる出演者は生涯そのスタッフを恨むと思うのよね。個々がやりたい事に走ってやりたくないことを適当にやっていると、一貫性がないだけではなく、番組に血が通わない。
せめて営業と編成と制作スタッフと出演者ぐらいは「番組を放送することで聴取者にどうなって欲しい」「そのために道具として●●を使う」ぐらいのことはしっかり意思疎通してた方がいいような気がするんだけど、そういう番組は希有なようです。これがしっかりしてれば、議論の余地がある。これらが通っていなければ、力がある人、声が大きい人の意見が通り、「営業主導」になったり「制作主導」になったり「パーソナリティのわがまま三昧」になったりする。どんなバカが相手でも、嘘でもコンセンサスとったほうがいい。でないと、思いついた事を思いついた順番に場当たり的にやっていくビジョンのないパープリン放送になっちゃうからさ。
同じことは人生にも言えるのよね。僕は何の為に生きているの? 今は? 明日は? そして、来年は? 意固地にならずにコロコロ変わって良いと思う。でも、常に行動の動機となるものはそうやって持っていたい。うん。で……? これを長々、書いてる理由ですかい? 勿論、芝居を書いている中での現実逃避でさぁね。ふあっはっは。ぐっすん。

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