その女アレックス。この手の小説は「一気読み」を強いられるので気をつけないとならない。例えば、ジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズだと「出そろった証拠をまとめて整理する部分」が随所に出てくるので、つまり「前回までの粗筋」みたいなものを用意してくれているので、所謂RPGにおける「セーブポイント」のように「さて、今日はここまでにするか」というような読者との呼吸の間合いを計ってくれているのが解る。
しかし、これ(アレックス)は一気読みだ。台本の台詞で言うと、またはナレーション原稿でいうと「修飾節を長くすることで読み手にブレスポイントを作らせずに一息で言い給え!」と指定しているような問答無用だ。腰巻きのような惹句に惑わされずに「ただ」読んでみた方がいいとは思うけどね。
だって、腰巻きの惹句は「買わせる為」のものであり、買った後に「その腰巻きを読んだから面白さが半減したかどうか」はまるで考えていないからさ。余計な情報が入れば面白さは半減するに決まってる。期待するものが「具体的になればなるほど」期待値とのギャップが生まれるワケさ。だから、演劇のチラシでも口上を載せないものが多くて「なぜ?集客したくないの?」みたいに思っていた時期があったけど、とても理解できる。変に安心して臨める劇場に劇場としての意味はないからね。寺山修司も劇場はドキドキするところでなければならない、と言っていたような気がする。そりゃドキドキするよね。だって、ドッジボールを最後客席に思い切り投げつける終幕の芝居とかあるんだぜ天井桟敷は。ああ、見たかったなぁと思うよね。驚きなのは、天井桟敷にいた牧野さんが(芝居ご一緒したことがあるけど)劇団四季に入ってご活躍であるということ。すげー落差。でも狂気の演技は今でも健在。それが大きなカンパニーでも生かされているに違いない。一度見たいなぁと思う。
さて、アレックスは読まされた感のある小説で、「早く次が読みたい」と気づくと夜更かししてる系の小説ですが(実際一晩の数時間で読んでしまった。なんか勿体ない)、もっとゆっくり読みたい、というものもある。読み終わりたくないから中断する、なんてこともよくあるよね。芝居を書いているとそれはよく感じる。ああ、書き終わりたくないからこのままでいたいなぁ、みたいなね。書き終わると全てが終わってしまい、作者の手を離れて「演出家」の手に「役者のもと」へ引き渡さなければならない。当たり前のことなんだけど、それがなんだか寂しくてね。騎手に渡す調教師はそんな気分なんかなぁ。
バロウズ/ウォーホル テープ
これはゆっくり読みたいなぁ。と。表紙見て買わずにいられるバロウズファンってかなり少ないと思う。ウォーホルファンは勿論のこと。ねぇ。
ぼくはスピーチをするために来たのではありません(G・ガルシア・マルケス)
これもね。ゆっくり読みたい本、早く読み進みたい本。あるよね。どんな作品も何かを期待するから触れようとするのだけれど、期待する形が具体的であるとそれは純粋に楽しめないから自分も気をつけようと思うよ。