稽古と仕込みを平行して進められるのよね。

宮川です。「妻恋チェリー」絶賛稽古中。今回は、自分でも、こういう事なのに必死になれる所が不毛なようで捨てたもんじゃないなぁと思えるようで、ご満悦。こんなことを台詞に書くだなんて。なんかそういう事の大事さを感じてきたので迷いはないのよね。
んとね。例えばさ、アートと言われるものに目的はないでしょう。草間さんが水玉大好きだからといって、「そんなに一杯水玉描いてどうするの?」と言われて「そーいわれてみりゃあ、そうかなぁ」なんて考えちゃったら、何も始まらないでしょう。
演劇やりながら仕事をしてきたけど、20代~30代前半は「それをやってて何になるの?」みたいな事を言われたもんですよ。まぁ、整理すればいろいろありますよ、色々なことになりますよ、たとえば、


伸び伸び作る事が出来る創作環境があることで、クリエイティブな仕事の現場で抱えるストレスを軽減できる。
やりたい人とのみ芝居作りが出来れば、一緒にやりたくない相手との仕事も我慢できようってもんさ。このバランスは本当に助かるのよね。自由になる所があるから、思い通りに進まない現場があっても大声出さずに我慢出来る。まぁ、誰かとはやらねばならんのだからな。なんて大人ぶったりしてね。けけ。
創作することで、自分の頭をだらけさせずに済んでいた事は、ここ数年で強く気づいた。吐きそうになるぐらい考えてた時期を抜け出したので(体力的な事もある)、少しずつ頭がたるんでいくんだろうなぁなんて思っていたりする。まぁ、それはそれでいい。甘んじて受ける。それが加齢というものぞ。
代理店が好きな馬鹿ワードで言う所の「そもそも論」ではなく、つまりどうして演劇やってるの?ではなく、どうしてそういうのを扱ってどうしてそういうのを作るの?ってことに話を戻すと、水玉の草間さんも勿論の事、一見変なもしくは不思議な作品は「なんだこりゃ」という印象を受ける事がある。でも、それを「やってみよう」それを「作品として発表してみよう」と思うところが表現の一番大事な所。それを思いつくものの「頭の中で消しちゃう」のが普通だものね。
例えば、ジョン・レノンのハートを射止めたオノ・ヨーコのアート。椅子を上って天井に開いてる穴にクビを突っ込んで見ると「LOVE」と描いてある。なんてのは、頭で考えると「だからなんだ」なんだけど、それを体験すると、椅子に上らされて、無防備にそれに向き合うと天才も「結婚したい」相手の作品になってしまうワケでありますよ。
そうやって思うと、今回の妻恋チェリーの中に出てくるいくつかの要素は「なんでこーなの」とか「なんでここでそんなこと」というような事が自分でも呆れるぐらい散りばめた。その自由をわしづかみにさせて貰っているので、日々を頑張れる。

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