平田オリザさんが朝日新聞に長い面白い文章を寄せていた。
「劇場型政治」という言葉が紙面をにぎわすたびに、苦い思いが心に浮かぶ。劇場に足を運んだこともない政治記者たちが、何の根拠を持って「劇場型」と切って捨てるのか。劇場は、人生をふり返り、世界に思いをはせる場所だ。思考停止の阿呆を増産する機関ではない。
という文章で始まる。つかみも完璧。スカッとする。僕が言うと洒落だけど、この人が言うと本気とも思える。劇場を愛し作ってしまった人でもあるし。
この演劇人としての立場からスタートした長文は、色んな角度から問題を提起し演劇人ならではの見方で今の世の中の不条理(と思っていないから余計怖い不条理)をバッサバッサと斬る。
特に、「いい子を演じる」ことに疲れて登校拒否になるパターンが多い話や「ホントの自分なんてない」というタブーにも近い領域をシレッと語る手練に、極めて痛快無比な感想を覚える。
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僕は、評論家が好きではない。喋る機会は仕事でも日常でも多い立場にいる自分のことを「演出家として役者に説明する」喋るという行為や、ラジオパーソナリティとして「聞き手を想像しながら喋り続ける」というドMな行為は、恥ずかしい印象がある。大体、喋る男はもてないし。不言実行と対極に位置してるように思えてならない。芝居のカーテンコールで喋らないのもそれが理由で。例えば人気のラジオ番組が放送されている時期であれば、「千秋楽につきキャスト紹介させて頂きま~す」なんていって、役者を紹介したり、つまりフラの自分を出せば歓迎して下さるお客様もいらっしゃるでしょうけれど、つとめて控えている。勝負すべきは芝居なのであって、と。それで「ああ、楽しかった」と思って頂けても、裏口入学しているようでいけない。
そんな僕だから、言うだけで何もアクションをおこしていないような(そんな言い方も偏向してるが)評論家なる立場の人があまり好きではなくて。まあ、それはものを作る会議で人の意見を否定してばかりいる非生産的な出席者を蔑む所もあるからなんだけど。国政を「いやあ困った困った」と言いつつ、でも言うだけってのがどうも苦手で。がたがた言うならお前代議士になって色々やろうよ。と思うのね。それが出来ないのなら、しないのなら、セカンドベストだろうが間接的にでも選んじゃった人たちを信じようよ。嫌なら日本人をやめようよ、と。まあそう潔く考えるべきと思うのね。
だからニュースに関して自分の意見を言わねばならない仕事をしていた時期はそれはそれはしんどくて、自分をドンドン嫌いになったものです。人のミスをあげつらって金を貰う、という非常にさもしい生活費捻出をしていた乞食気分だった。自分は何も生み出していない。という。勿論エンターティンメントにすげ替えるという自分なりの指針を持とうとはしていたけれどね。例えば、転んだ人を「あーっ!転んだ転んだっ!」って笑うのは、人として悲しいでしょう。例えばそれが罪なら裁かれるし、友人なら縁を切ればいいし、近所にいれば引っ越せばいい。関わりがあったとしても出来ること(していいこと)はそれぐらいの筈だもの。
だからか、転位21の主宰者「山崎哲」さんがワイドショーに出始めた時はビックリした。どうして? と。そこにクリエイティブはないでしょう? と。俺が尊敬する人だ。「うお伝説」は何度も読み返した。平田オリザさんがワイドショーに出てきて、もはや泣きたくなった。どうして? 二人ともほどなくFO気味にいなくなったので、安心しましたけど。きっと山崎さんは、何か阿呆スタッフにキレてやってられなくなったんだろうな、きっと。ア◆セスをブチ切れて辞めた◆監督みたいにね(汗)。←わかんない、勝手な想像。
そんなことを以前書いたら、知り合いの「東京トップレス」というサイトの管理人の工藤隆男ちゃんから、なんだかゴニョゴニョしたメールが来た。どうやら、自分は「巨乳評論家」という肩書きで仕事をしているかららしい。違うよ、違うって。工藤ちゃん、違うってば。全然違うよ。巨乳について評論するのは面白いじゃん。巨乳にどうこう言うだけで「だったら自分で巨乳をやってみろよ」なんて、五輪選手も言わないでしょ。出来ないことだからこそ面白いんであって。
今回のオリザさんの寄稿文は、評論でも何でもない。随筆だ。ラジオのフリートークのように話題をポンポン転換し、あくまでブログのように軽く書く。だけど心を掌握するパワーに満ちてて。押しつけがましくもないし、したり顔で語る高慢もない。なのにちゃんと(というか気づくと)「日本のなんちゃってデモクラシーは、やっぱオカシイよっ!」と感じてる。
なんだか、こういうのを読むと、お喋りな自分でも「ま、いっか」と思えてしまうのだから不思議です。