死刑の是非。

千葉氏が死刑反対の立場で立ち会い執行した。死刑しない期間1年間の記念日に執行すれば、「注目」が集まるから、という理由でその日を執行の日に選んだとしたら、「注目」させる為に「人の命日」を操作したことになり、「死ぬ日」が「運命」が利用された事になる。それはまるで語られない。という事よりも、あと3分だけ、死刑について考えてみよう。
死刑は75%の人が「あった方がいい」と言っている。これが世論だ。それはきっと、抑止力としての「死刑」の存在が意味するもの。それが大きい。犬も殴られなければやりたい放題だけど、ぶってしつけると言う事を聞く。それが正しい方向への導きであれば良き体罰と言える(と人は見ている)。死刑に準ずる犯罪者と犬を一緒にしてる俺もどうなんだという話もあるが(というと、重犯罪者と一緒にされる犬が可哀想という見方もあるが)、ともあれ、抑止力は否めない。というか、その為にある、といっていいのが死刑というシステムだ。
人は人が作った法律の中で生きる。結婚も、住民票も、選挙も、学歴も、ワールドカップという仕組みやサッカーという試合の有りようも全部ルールは人が作った。法が意味するものは、秩序であり、枠。枠の中でどれだけ頑張れるか、という点で制約が出来る。
枠が。法が。あるから、人はその中で喜びがある。ただイニエスタが誰もいないゴールに球をけり込んでも誰も泣かない。あの状況であの試合だから泣ける感動があるワケです。結婚という仕組みも、それを決意する相手の勇気に花嫁は感涙するのでしょうし。センター試験もそこで目安となるラインがあるから、満足できた時に喜べて次へ進める。
喜びや悲しみ。人としての切磋琢磨に繋がる限り法は枠は必要だけれども、命を奪う事は、罰する事は果たしてそれでいいのかな。原爆の日に思う。。原爆と規模が違うだけという見方はできないか。国という単位が人が決めた(例えば東京裁判とか)法で裁かれたのだとしたら、それは制度か?
断じて言うけど、僕は戦争反対だし、原爆を落とした事は逆に本土決戦で日本人全員を死なせかねなかったのだから、戦争を早く集結させたのだ、日本人の多くを救ったのが原爆投下なのだ、とのたまうアメリカの言い分はまるで納得できないし、痛々しい自己正当の詭弁で吐き気がする。自分たちの中の罪悪感を打ち消す為にこっそり日記に書くならまだしも我々に言うのは許されないとさえ、思う。
だから、そうやって考えると。死刑という制度も、アメリカが広島や原爆にした行為の手前に位置するものなんじゃないかなぁ、とも少し思えたんです。なくても抑止できればそれが一番いいのでしょうけれど。
悪いことをしたら親も同罪で償うシステムにしちゃえば? 五十歳になるまでは、とかね。いつまでも子供のする事をチェックしないといけないから、逆にボケなくていいような気もして。
死刑に関しては、色々考えてしまう。

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