世の中には、とても素敵な友情や友愛を描いた小説があり、男同士の関係は、結局セックスなんじゃないの?という命題に行き着きがちな「男女」の関係とは違った純粋なる慈しみと尊敬の関係が構築される。武者小路実篤の「友情」も、夏目漱石の「こころ」も。
特にライバルとなった男同士(もしくは女同士)の友情と切磋琢磨のプロセスは共鳴できる。辻邦生と北杜夫の往復書簡は嫉妬すら覚える。
だが、ここに記されている南風椎さんと新井満クソヤローとの関係は、それの対極にある男同士の関係だ。心の綺麗な人と日本一さもしい男の関係は、まるで昔話のようにステロタイプの善人と悪人の関係であり、ふてぶてしく悪を悪びれずに貫く新井満クソヤローの卑しさは、読んで強く同情する。ここまで心の汚い生き物がいたのか、と。
【ここからは、読んでから読んでね(意味わかる?)】
「いいことをした」と思ってよかった、ということにしよう。
と帰着する南風椎の「大人」。そして、新井満が盗作を詫びに、呆れるぐらい沢山の商品を持って椎さんを訪ねた真意が「1000の風」の原作者を確かめに来たという狡猾が伺えて、どこまでも椎さんのお人好しぶりが苦笑いを誘う。
ここには、様々な有名人の名前も出てきて、誰の目にも興味深い。新井満のような人を野放しにしてはいけないし、それでビジネスにしようというポニキャニや出版社も、そんな金ならどぶに捨てた方がましだ、という考え方に至るべきだと自分は思う。
勿論、反論も多くあろうし、「法律的には何も悪くない」という意見もあるかもしれない。その手の反駁も甘んじて受ける(聞かないけど)。だが、僕が新井をウンコマンだと思うのは僕の自由だし、彼をウンコマンだと、みんなに思って欲しい、と願い続けるのも、僕の自由だと僕は思っています。なぜなら、僕の物差しでは彼は万死に値する最も醜い生き物であり、彼と同じ空気を吸わないと自分が生きていけない事が悔しくて悔しくて仕方ない。