「そしてカバたちはタンクで茹で死に」

バロウズとケルアックの「作家以前」の共作を読んだ。去年、平積みになっていたタイミングに偶然本屋に入ったので、即座に買って、そのまま「積ん読」していた。読まずにとっておく。自分を焦らす。この効果がある小説はなかなかない。

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芥川賞のW受賞は、西村賢太さんと朝吹真理子さん。朝吹さんの「きことわ」は早くも二度読んだ。小説のなかにある時間の危うさを、なのに的確に追体験させられて、一気にファンになった。

それと比べて「継時的」に淡々と記すスタイルのケルアック文体は、幼稚で仕方ない。でも、それも含めて、ケルアックやバロウズの魅力。ビートジェネレーションですからして。
西村賢太さんは、「私小説」で受賞。この人は一生これで行くつもりなのだろう。その心意気は前回から辛口審査員の石原慎太郎に推させた筋金入り。
だが、言ってみれば、その「自分が体験したことを書く」という点では、この二人には敵うまい。ケルアックの「路上」は、ひたすらアメリカ横断のダラダラした青春の旅を綴るものだし、バロウズ「ジャンキー」は自分の麻薬体験を赤裸々に著した。
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そして、バロウズの作品にも、ケルアックの作品にも、仲間が実名でこそないが「まるきり本人」として登場する。
いくつもの作品の中で語られている伝説にも近い「ある事件」があった。それは、小説になっているが発表しない、とバロウズの宣言があった。
よくよく調べてみると、それは、渦中の人物とつまり、事件の当事者と、自分が死ぬまで小説として著すのは止めてくれ、と話し合いがなされていたからだ。
本書「そしてカバたちはタンクで茹で死に」を読めば、どうして小説にしないでくれ、と言われたのかはすぐ解る。
そして、この一件こそ、ビートジェネレーションが「詳しく知りたかった」内容だった。それがこうして2010年に発売になったのは、
そう、当事者である人物が(有名だけど名前伏せる)、2005年に他界したからに他ならない。だから、1944年の第二次世界大戦終戦間際のニューヨークを舞台にした物語が、ようやくここにきて日の目を見た。
ケルアックとバロウズが、「一章」ずつを交互に書いている。しかも、それぞれ一人称が交互する。そんな洒落た習作だが、「オン・ザ・ロード」よりもずっと前であり、まして「裸のランチ」よりもずーっと前に存在していたのだ。
例によって、句読点はグッチャグチャだし、文法もシッチャカメッチャカで、作劇的な技法の一切を排除した(つまり、伏線だとか、入れ子とか、時間軸をちょいと工夫とかが一切ない)、ただただ子供の作文のように「あったことが書かれている」だけの手法で綴られている。
だけれども。
だけれども、やっぱり胸打つものがあるのが、バロウズとケルアックでした。決して薦めませんよ、言っときますけど。私的な要素が強いんで。単品として愉しむものでもないような気がするし。完成度の低さが魅力的な文体なもんで(汗)。
ともあれ、ようやくこうしてこの作品に出会えたことに感謝です。
追記。僕は仕事でラジオに携わっている最近ですが、ジャック・ケルアックやウィリアム・バロウズの作品にはよく「ラジオ」が出てくる。こんなにラジオが愛されている時代は、読んでいて本当に羨ましい。
実際、このタイトル「そしてカバたちはタンクで茹で死に」も……。なんです。
・・・さて。ここで一曲。My Chemical Romance “Na Na Na”でござるっ!どりゃっ!

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