迷った末、メンバーと話し合いをして公演をほぼ通常通りに行う決定がでてから早一ヶ月。その間にも色々な事が起きています。
ラジオで毎日喋っていると、これまた色々な事があります。地震もあるし、他局の話も耳にするし、地方局の情報もたまに入る。そんな中、生放送中の地震というのもよくあり、中には大きなものもある。
そこでは、決められた対応のマニュアルのようなものが勿論あるんだけど、それ以前に「人として」こうあるべきだろうという立ち位置が自分にはある。詳しくは書かないけど、「決まり事」を破ってでも「聞いている人」の身になって喋る内容を変えることもある。と、同時に、どんな時でも「人としてリスナーと向き合う」意識があるからだけど、地震の時にも自分が自分であるありようは変わらない。それは当たり前の事なんだけど、この続く地震の中でそれを有り難がられる機会が極端に増えていて不思議な感覚です。
宮川さんがいつもの宮川さんのお喋りで地震のことを伝えてくれていて安心できました。とか。ふむ。それ普通の事だと思うんだけど、どぼじで? とまるで理解できずにおると、その手のメールが沢山来た。でいくつかやりとりをしていて、少し理解出来たのは、次のようなことだ。
局のアナウンサーの人がやっている番組だと「番組中」はパーソナリティなのだが、「有事」には「局アナ」に戻る。と。それが寂しい以上に幻滅する、とな。楽しそうな話をしていたのに、急に殺気だって他人行儀の敬語で詳報を繰り返すマシンと化す。それは、まるで産業スパイとカモフラージュの為に結婚生活をしていた事をある日突然知る妻のような気分だ、ということです。
なるほど。本質が「自分という人間」であるか「局アナという会社員」であるかの違いのようです。どっちが悪いということもない。アナウンサーという立場に誇りを持っている人も中に入るでしょうし、パーソナリティという立場に誇りを持ち自分らしくあろうという人もいるでしょう。ラジオをやっている時は「局アナである前にラジオマンであれ」と思うように切り替えている人もいるでしょうし、どうあれ局の人間であることを念頭に、という人もいるでしょう。まぁ、それは、大体にして、「今の原発の状況は困ったもんだ」という人は多くても「ともあれ原発は無くすべきだ」という人がいない事でも大体解りまさぁね。
メールの何人かは、もうそういう人がラジオショッピングでオススメしているものも「局アナとして会社の利益を考えて」のセールストークにしか聞こえず、負の連鎖で印象がドンドン悪くなってしまった、とな。それは可哀相だなぁ、とは思いつつ、でもある意味納得させられる。
で。これについて、どうして自分がこうなのかを考えてみたが。
自分は、局の人が思うほど「正しい情報」を伝えるべき、という考え方よりも、「安心させる」ことを優先しているような気がする。というか、そういうことにしてみた。自分でもその違いなんてよくわからない。人に言われて考えを変えたこともないし、自分が思わない事を言わされたこともないし。そういう時は闘ったり、降板してきたし。
30ぐらいの、ラジオという仕事に携わり続ける上で節目となったある時期に、とある影響力のある人から「お前はパンダみたいな奴だな」と言われた事があり。要は「そのまんまでいることで金になるなんて、希有だぜ。宮川兄」と(そう呼ぶ人だった)。「深夜放送で『眠い~』と言って許されるのはお前だけだろう」と。
正直なことをいえば、この辺りはちょっと計算しててタレントじゃないんで正直であるべきラジオパーソナリティが「より正直」を目指し「超正直」を売りにしようとしていた部分でもあるんよね。まぁ、その時の権力者はまんまと僕ちゃんの権謀術数にハマったワケです。はっはっは。思っても普通言わない事を敢えて言う、とかね。「愛人欲しいなぁ」とかゲストに「オッパイさわらせて」とか言うとかね。
まぁ、そういう意味でいえば、自分らしいというよりもラジオにおける自分らしさ、という感じであることは、いつも(特にタクシー乗った時とかに)ワルイなぁ、と思うんにゃけどね。普段からあんなに大声で話さないって(汗)。
ともあれ、ラジオについて言えば。アナさんもエンタメ系DJも、ラジオの放送を続けないとならず、これまで試行錯誤してきたし、これからもする。イベントのように中止にすることもできない。常に「出る」事が求められている。そう考えると、震災直後にいきなり西日本に逃げた有名アーティストたちに比べたら、誰であれイカしてると思うんだけどね。
そんな人たちに今更支援ソングとか作って発表されてもなぁんかピンと来ないのは、やっぱ俺ってゆがんでるなあ。