公演、無事終了しました。
ってブログを結構前に書いています。終わったら、すぐに次の芝居に取りかかりますし、過去の作品のことを忘れて現在進行形の作品に集中するのも仕事です。そうやって思うと、こうして、色々な事があった中での公演について自分の気持ちを整理して保存しておくことも、しておいて悪くないのでは、と思って書いておくことにします。
ただ、公演期間中に公開するのは違うので、千秋楽がハネた後に公開する設定で保存しておきます。きっと、これが公開される頃には、バラシも終わって、打ち上げに行くか一旦車を事務所に運ぶか、とかそんなことをやっている時間だと思われます。
【「いるだけ。」の作り方】
今回は普段の公演と違って、随分と異なった視点を持ちながら物作りをする必要のある公演でした。当初予定していた物語とは違って、震災を受けて被災者やそのご家族の気持ちを慮る事が常にプロセスに必要と考えて臨みました。
表現するということは、必ず、誰かを傷つける事であり、何者かを敵に回す作業であることは宿命として知っています。不倫した女性を登場させただけで、不倫している女性の知り合いが「宮川さん、あれ、アタシの事書いたでしょっ!」と怒って詰め寄る。前にも書いたけど、村上春樹でさえエッセイに「村上に話すと小説に書かれちゃうからな、と知人がモノを言わなくなった」と嘆いています。面白い話があっても「あ。宮川さんラジオで喋っちゃうからなぁ」というのもよくある光景。
何かを得ようとするのですから、何かを失うのは仕方のないことで、その黒字を狙うのか自己満足を狙うのかどちらも表現者の自由ではあると思いつつ、ともあれ全員を満足させることは不可能であることも十分に解っています。更にいえば、特定の人に関してのみ配慮することも何か違うとも考えています。
ですが、今回は時期が時期の為、また震災の大きさ故、配慮しない選択肢は当初よりありません。劇団員たちとミーティングを開き、やるのかどうするのか、降板するのか出演するのかを話し合いました。結局、公演することになったのですが、3月の時点で、今のこの時期が不透明な為、賭けであることも事実でした。
それは、過去に何度も出演してくれたはしもとゆかサンが、見に来てくれた日に楽屋に来てポロポロ涙を零して、「震災の時期に台本を書いて原発が終着しないまま稽古をすすめてきたのがこの作品なのだと思うと観ながらウルウルしちゃいました」と言ってくれていたのでも解ります。
特に「人の命を扱う」作品であり、エンターティンメントで楽しめるように、となると、どうしてそんなモノを今作らねばならないのだ?と何度も自問自答しました。
結果、ストーリーを若干変えて、落ち着きました。余震に怯えながらご覧になるお客様をどう安心して頂けるよう努力をするか、も熟考しましたが、結局、アナウンスもせず、対応シミュレーションだけをちゃんとしておこうと落ち着きました。なぜなら、どういう状況にあれ、芝居小屋というものは「現実を忘れさせて差し上げる場所」であるからです。
節電に関する台詞も削除しました。登場人物で命を落とすキャラクターがあったけど、そうでなくしました。
ラストの中村ヘージの演説も法廷なら「被告人大里洋太は・・・」で始まるべきが(検察から起訴なので「被告」ではなく「被告人」)、勝手に「被疑者大里洋太」にしちゃったし。これは、原発や震災に関する保証に関して、どれだけ裁判が乱立しているか解らない状況であったことと、僕自身が原発の必要性を自分なりに答えを出したくて、原発や原爆に関する裁判に触れているうちに「被告」や「原告」という言葉がとてもソリッドで断罪的な印象になったことにもよります。なので被疑者国選弁護人制度も2009年に改定になったことでもあるし、遺言書を間違えちゃうようなオバカな弁護士でもあるし、てなことで被疑者で通す事にしました。何より、こういう時期だから「洋太を被告」にしたくなかったのもあるのかもしれませんが。
色々変更した公演でしたが、なんとかなったのなら良かったです。ご覧になって下さった方がいて、無事に家まで帰る事ができたのなら、それで今回はオッケーです。本当にありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下追記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そうして色々な部分を直して、その範囲内でも自分が及第点を出せる作品を創出出来たつもりでおったのですが、それでもやはり、幕が開いてから頭を悩ませる事が出てきました。
カトリーヌ巴村をハリケーン「カトリーナ」の被害を受けた人を想い「変えるべきか?」
鮎の解禁がネタになっているが「淡水魚からセシウム検出されたことにより、福島の鮎解禁が延期」になった。これをどう対応する?
等の問題が勃発してきました。気にし始めるときりがないものの、でも、なるたけなら人を傷つけたくない。そんな葛藤を強く思う機会は、僕以外の多くのクリエイターの考え方を強くさせてくれることと思います。