長く生きていると(ってまだ四十数年だけど)、色々な事が解るね。
色々な事が解ってからの人生の方が楽しいのか、解ってない時期の方が楽しいのかといえば、無駄がなく効率的なのは、色々な事が解ってからの人生だけど、解らないけどだから楽しめる!というのは確実に解ってない若い時期なのよね。
これは、物を作るにしてもとても痛感する話。例えば、演劇は自由に作られて然るべきで、でも、その中で、「劇場」を借りてやる、というのが多くなる。勿論それを否定してテント公演や野外も素敵なんだけどね。で、劇場でやるとなるとその劇場のやり方に従う事になるし、それが便宜上都合いいよね。これも否定しない。こうして枠組みが型にはまる。
次に作り方。物語があった方がいいよね。暗転で転換した方がいいよね。劇的シーンで台詞に音楽ぶつけちゃえばいいんじゃない?とか 理屈ばかりのシーンだとお客様の頭が疲れるからダンスシーン入れようよ、とか僕らならスライドやる?とかね。
それらに代表される細かい技法は経験を積めばどんな人でも理解できて、それ以外の選択肢を消す技術が向上する。勿論、物語を作る上で、この設定ならギャグが豊富に思い浮かぶ筈!とかこの設定なら絶対にドラマが沢山作れる!とか「掘る穴」から「温泉が出るかどうか」を判断する「勘」が培われる。これも経験。
そうやって考えると、経験を積む方が、無駄がないけど、経験がない時に比べて、発見がない分、刺激がないのね。培った技術を引き出しとして使っているだけ。勿論、それは効率よくものを作れる人を束ねられるとか有効なんだろうけど、刺激的な若い頃に比べてなんか足りない。
若い頃は無理筋をドンドン掘り下げて、そこで話を広げようともしてきたし、今であれば絶対に出来ないとハッキリ解る役者に「出来るようになる努力」をしたりさせたり。役者も若い役者だと、未経験だから、そこに疑いを持たないからね。
芝居ではなくて、ラジオ番組でも思う事で、「あ、その手はあの番組が持ち前としていたものね」とか「それ、まんまアフタヌーン・ブリーズじゃん」とか思うと、候補として上がったアイデアを自分の中で消してしまう。でも、その先達の功績を知らない世代は「自分たちが思いついた!」と思っているから、のびのびとそれを信じて楽しんでやっている。勿論、演劇と違ってラジオは商業だからそれでいいんだけどさ。自分のプライドがその可能性を消すし、クリエイターかくあるべきと自負もある。
では。その刺激がなくなっただけであれば、その刺激のなさを「つまらない」と感じなければ、キャリアのある作り手の方がいいものを作れるのか、というと。これがまた一筋縄でいかないのが面白い所。「自分がやってきたことに飽きちゃって、そのパターンを捨ててしまう人」というのがよくいる。例えば、小沢健二って人には「LIFE」のようなアルバムもあと1~2枚は出して欲しかったよねぇ、と思っている人って沢山いるでしょう。イーグルスも「ホテル・カリフォルニア」の自分たちの偉業に勝てずにショボクレていった、なんて噂もある。次のアルバムも良かったのにねぇ。ご存知息の長い音楽家が普遍を追求する道も素晴らしいのだけれど。
それとは別に、刺激がなくなっただけではなく「熱」が足りなくなって、出来ない、というパターンもある。燃えられるものがないからノレない、とかね。そうならないように、自分は最近、色々な事を考えています。特にここ数年はずっと外部の役者さんで初めてお手合わせする人とご一緒する機会を連発させているし、今回「ヒポクリティカル・アイランド」は初めての芝居構造に挑戦しているし。つまり、それを作りたいというのは勿論だけど、そうすることにより「自分が熱を持って携われる」であろうことに保険をかけている要素もあるという。なんとも複雑怪奇なお話です。年を取るってやーね。
さて。今日の一曲。
Mindy Gledhill – Whole Wide World
本日は、明け方まで会社で台本を書いていたので、体がヘトヘトになり、日曜日の今日は絶対にオフにしてゆっくり休もうと思っていたのだが、携帯電話を忘れてしまって、取りに来たついでに書いている次第。とほほ。さあ、明日からまた月曜日、頑張っていきまっしょいっ!