因果だなぁと思うのは、エンターティンメントの現場に携わっていると(勿論それが自分が選んだものなのですが)、哀しい出来事がある度に、そこから乖離する心を作らねばならず、いつもいつも思う事です。
なんだか笑う事とか、笑わす事、もっと言えば、チャリ役やコメディリリーフなんていうものは、「真面目な話」であったり「二枚目俳優」よりも下にあるような雰囲気がものつくりにおいてあるでしょう。決してそんなことはないんだけどね。僕はずっとかねがねコメディアンこそ俳優の頂点にあって、笑ったり笑わせたりが出来る俳優さんを目指して損はないと思っています。シブい台詞しか言えない人はそれはそれでイケてるけど、放送上不適切な言葉を使うと片手落ち、というか。
何度となく、自分らもその問題に直面してね。ホームレスのことをちゃんと調べてちゃんと取材してホームレス生活まで劇団員にさせたり自分もしたりして検証に検証を重ねて作った芝居でも、中でオモシロおかしいシーンを入れると、それだけで「社会問題をからかって」なんて言われちゃう。役所から怒られたりしてね。3・11の後も笑いを取らない芝居を作ればいいのだろうけど、そうでないと何をやっても不謹慎って雰囲気になっちゃう。仕方ないといえばそう。
今も、照明の清水さんが他界してから、哀しくて哀しくて仕方ないし、思い出せばすぐにドバッと涙が溢れ出て苦しいけれど、でも、やっぱりラジオもあるし稽古もあるし、まるで関係ない人との打ち合わせもあるし、収録も会議もある。元気でヘラヘラしているのが仕事なので、ふと我に返ると自己嫌悪。更に稽古を進めて芝居を作ろう!とすると、そこでまた「こういう事してていいの?」と自問自答。勿論、いいんだけど。実際、清水さんは「宮川さん、ダメだよぉ、そういう事で立ち止まってちゃあ」って言うに違いないんだけど。でも、やっぱり、自分が、ずっと劇団を見てきて下さった人が他界した事にフタをしているようで、自分が厭な奴になったような、なんかそういう自己嫌悪なんですね。
これはもう、仕方のないことで。何しろ日高さんは電話で「まぁ、なんなら当日パンフに清水の名前載っけてくれてもいーし、何しろうちでちゃんと責任もってやるから安心しろよ」と言って下さった。うん。はい。ありがとうございます。でも。ね。なんだか。さ。と、まぁ、ぐじゅぐじゅしちゃうわけです。ってことで、僕も劇団員も大ショックなのは変わらないでしょうし、奈良チャボも凹んでたけど、でも、こうします。震災後に自分がどうすればラジオの生放送に向き合えるのかを整理しようとした時に行き着いた結論、祈りを胸にいつも通り、と。見た目軽佻浮薄な僕ちゃんだけど、当たり前だけど、悼む気持ちは変わらない。でも、これ以降、芝居が終わるまでは清水さんのことはここに書くのはやめときます。アゲアゲな事ばかり列挙することになるけど、薄情な奴だと思わないでね、清水さん!
今日の一曲っ。
John Mayer – Queen of California
ジョンメイヤーは、一度、めっちゃくちゃ声が出なくなって、大変なことになったのに、復活しましたっ! やったーっ!
あ。そういや、俺も二年以上前にポリープになったっけ。